笑いってすごく大事だと思うけど、やっぱりどうもネットは「せせら笑い」の
ほうが蔓延ってしまう世界かもしれないね。
心理学者の榎本博明氏著「上から目線の構造」という本を読んだのだけど、
わかりやすくてとても面白かった。
人を見下すような発言を連発して迷惑がられる人は、
その人自身が強烈な「見下され不安」に苛まれている《劣等コンプレックス》
の塊なのだ、と。
その人自身が強烈な「見下され不安」に苛まれている《劣等コンプレックス》
の塊なのだ、と。
こういう人は、なにかにつけて「人より優位に立ちたい」と考えているので、
「人から見下されているのではないか」という邪念にとらわれ過ぎて、
人の話をすぐに《優劣》だけで判断して片づけてしまう。
「人から見下されているのではないか」という邪念にとらわれ過ぎて、
人の話をすぐに《優劣》だけで判断して片づけてしまう。
相手がまともな話をしはじめると、「自分が劣勢に立った」と感じてしまい、
素直に聞いてみるということができず、被害者意識を膨張させてしまったり、
素直に聞いてみるということができず、被害者意識を膨張させてしまったり、
攻撃的な態度に出たりしてしまう。
あるいは、「相手よりも優位に立とう」として尊大な態度をとってしまう。
他人が親心から真面目にアドバイスをしてあげても、「見下された!」としか
感じないからいつまでも成長できない。
誰からも相手にされない悲しい未来に向かって突き進んでしまう。
誰からも相手にされない悲しい未来に向かって突き進んでしまう。
自信のない人間ほど「今の自分」にこだわる、という言葉も印象に残った。
「自信」と表現されると、そんなのなかなか持てないと感じる人もたくさんいるん
「自信」と表現されると、そんなのなかなか持てないと感じる人もたくさんいるん
じゃないかと思うけど、つまりは「心の余裕」のことだ。
そして、欠点や劣った部分があったところで、その人の人間的価値にはなんの
関係もない。
「欠点? そりゃあるよ、しょうがないじゃないか」と思えばよい。
心にそのような余裕があれば、他者の意見を取り入れて、抵抗なく自分を変えて
いくことができる。つまり、成長できるということだ。
誰にでも
欠点があり、どんな人でも劣等感を持つことはある。そして、欠点や劣った部分があったところで、その人の人間的価値にはなんの
関係もない。
「欠点? そりゃあるよ、しょうがないじゃないか」と思えばよい。
心にそのような余裕があれば、他者の意見を取り入れて、抵抗なく自分を変えて
いくことができる。つまり、成長できるということだ。
ところが、劣等感にとらわれ過ぎて、コンプレックス化してしまうと、
自分の等身大を認めることができず、反射的に他者の意見を拒絶してしまう。
これでは成長もできない。
「今の自分」にこだわって縮こまることで、自分の欠点から目をそらしてしまう。
しまった場合は、まず「自分はバランスを崩しているかも?」と考え、
「今の自分」にこだわりすぎて成長を拒絶していないか、俯瞰してみるのがいい
かもしれない。
自分の等身大を認めることができず、反射的に他者の意見を拒絶してしまう。
これでは成長もできない。
「今の自分」にこだわって縮こまることで、自分の欠点から目をそらしてしまう。
他者から意見されたとき、「自分が否定された」と受け取って過剰に反応
してしまった場合は、まず「自分はバランスを崩しているかも?」と考え、
「今の自分」にこだわりすぎて成長を拒絶していないか、俯瞰してみるのがいい
かもしれない。
自分が間違っていたとしても、別にそれを怖がる必要なんかないと思う。
間違えた、と思い、そして変化すればいい。
世の中は、間違いのない完璧な人間より、間違いを反省する正直な人間への
視線のほうが100倍あたたかいもの。
だいたい、間違えることが許されなかったら、あたしなんかやってらんないわよ。